どんな人にも価値があることを伝えたい!伊王野求美のプロフィール

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こんにちは!伊王野求美のHPへようこそ!!!

伊王野求美のプロフィール

伊王野求美

名前:伊王野 求美(いおうの もとみ)

生年月日:1992年3月12日生まれの魚座/血液型(ー)A型

出身:茨城県水戸市出身、水戸市在住。

職業:フリーランス(主にマルチクリエーターとして)

茨城観光マイスターS級認定

現在茨城県内の2つの観光大使を兼任。

ちなみに今好きなのは、韓流ドラマ、海外ドラマ、食べること、寝ること、妄想することです。

ここにたどり着いてくださった皆さん、本当にありがとうございます。

伊藤の伊、王様の王、野原の野と書き伊王野。求めるに美しいと書いて、伊王野求美です。

「珍しい苗字だね」と必ず言われます。(笑

 

先祖は栃木の那須郡の地名から来ています。

平安時代に活躍した弓の名手「那須与一」の家系です。

また、先祖は水戸藩士で、水戸黄門様の家老をしていたそうです。

 

歴史も大好きなので、これから私の家系のファミリーヒストリー作りたいなあと思ったり^^

楽しいことが大好きで、毎日を楽しくドキドキワクワクしながら暮らすのが夢の、妄想ロマンチストです(笑

私の仕事は

  • イラストレーター
  • 歌い手
  • 講演会講師
  • 観光ガイド
  • タレント
  • 茨女編集部員

など、いろんなをことしてますので、周囲は「一体何やってるんだろう??」ていうイメージを結構持たれます。

一度は都内に出たものの、会社でうまくいかなくなった上に長時間労働の超絶悶絶ブラック企業すぎて身体を壊し、地元へ帰ることになりました。

 

それからはほど良い田舎である茨城の住みやすさを再確認でき、茨城で生きていくことを決意しました。

しかし、会社を3回クビになりうつ病にもなり、日本社会では会社員として向いていないと悟りました。

その理由はADHD、ASD、双極性障害Ⅱ型という発達障害、精神障害があるからです…。そして、フリーランスになり、今に至ります。

私は人との繋がり、穏やかな調和が好きです。あたたかく見守っていただけたら嬉しいです。

よろしくお願いいたします。

音楽と絵、漫画が大好きな少女。

私は生まれた時から、普通じゃなかったそうです。(笑

私が生まれた際にお産に携わった看護師さんにも

「この子はすごく大変よ、覚悟しておいたほうがいい」と言われていたようです^^;

夜泣きが半端じゃなくうるさかったそうです…。物心ついてないといえど、とても申し訳ない気持ちです。(でも赤ちゃんなんだから、仕方ないですよね)

 

月日が経ってもそれは治らず、小さい頃は恥ずかしがり屋で、おとなしくてひとみしり…かと思えばめっちゃ喋る、お騒がせな子。

心は常に宇宙のようにいろんな想像を膨らませてる子でした。

みんなと同じことができず、人と違った行動ばかりとっていました。

 

じっとしていられず、さらに勉強も、通信簿がオール1レベルの、何十回受けてもテストは毎回0点。小学校時代はそんな子だったため、友達が全くいないわけではありませんでしたが、「何やってんのかわからない」とよく言われていたので、ずっといじめられっこでした。

 

そんな小さな頃から、何かするにも人とズレていたり、空気が読めなかったりして、周りも呆れたのか友達も少なく、ともかく色々やるにも行動や発言がおかしくて「変わった子」でした。

 

しかし、そういう一人の時間が多かったからこそ小さいときから絵を描いたり、ピアノや歌をうたうことがすきでした。

父がジャズをやっている影響もあり、物心ついたときからピアノに慣れ親しむことができました。みんなが外で友達と遊んでいるのを羨ましいなあと思いつつも、一人でピアノを弾いたり、絵を描いているのが好きな子供でした。

今振り返ると、音楽や絵画のおかげで、なんとか崩れそうになる心の安定を保つことができていたように思います。

いじめが加速したが、お婆ちゃんの存在が支えになった

学生時代はずっといじめられていました。今でも忘れられない出来事と、そのいじめで疲れたのを癒やしてくれたのはお婆ちゃんの存在です。

いじめの日々と忘れられない菌がうつるという騒動

小学校時代は私にとっては過酷ないじめの日々でした。

私はクラスに馴染めず、あっという間のクラスメイトのグループが出来上がってしまい、その中に入ることなんて小心者の私にはできませんでした。

 

同じくクラスでぼっちの子がいたので、私は必ずと言っていいほど、そういう子とは仲良しになれたのが心の救いでした。

周りがいじめていても、中には混ざらないで私と仲良く接してくれる子もいました。

しかし、なぜかそういう子に限ってどんどん転校していってしまいました。

 

そうすると一人の私に対してどんどんいじめがエスカレートしていきます。

毎日いろいろないじめがあるんですが、少し紹介します。

朝来たら机に「しね、消えろ、まじうざい、殺す」などとデカデカと書かれたぐちゃぐちゃな机がある

授業中だったので、みんなが静かに私の方をじっと見ていました。そこで私は、声を上げずに泣きながら、どんなに消しても消えない文字を消し続けました…。

手を洗っていると、隣で一緒にうがいをしていた男子が、散々口でブクブクうがいをした後、私の右腕に思いっきり吐き捨てた

これは今でもトラウマです。先生に言いましたが、ただ一言注意だけ。本人はやっていないと言いはります。

登校したらいつも靴がなくて、授業を取りやめてクラス全員で探す事態に。

結局、見つかったのはトイレの便座の中にベトベトな状態な上履きでした…。

どんなに悪口、陰口、嫌味を言われて、それを先生に相談しても聞いてもらえなかった

「あなたの被害妄想でしょう?気にしすぎ。」

「もういいんじゃない?いい加減許してあげたら?」と、いじめっ子の肩を持つ始末。もはや話になりませんでした。

カレンダーで私の誕生日だけぐちゃぐちゃに真っ黒焦げに抹消される。
私のクラス集合写真で、私だけブサイクに加工(落書き)されてぐちゃぐちゃになってる。
昨日まで仲の良かった友達がいきなりシカト。

クラス全員でシカトの日々。居場所がなく、まともに呼吸ができませんでした…。

無視、仲間はずれ、聞こえるように言う悪口、机に暴言書かれるなど、数え上げればきりがないです。

なかでも、当時流行っていたいじめの手法で

「菌がうつる〜〜!!!」

と、触れただけで菌のなすりつけ合いゲームが始まり、なぜか私が一番汚いと言われました。

 

それだけでも傷ついたのに、さらに、お隣の席の男子が席をくっつけたがらず、先生に怒られても絶対にくっつけることを嫌がりました。

先生「なんで机をくっつけないの!?」

男子「いや!!!無理っす!!無理無理!!!これ以上は絶対無理!!!」

先生「あっそう、もういいわ」

 

「いやそこちゃんとくっつけさせろよ!!!??おい!!!(心の叫び)」

やった方は平気で忘れていても、やられた側は一生傷を負ったまま生きていくんです。

なぜ言い返すことができなかったのか、今の私にはわかりません…。

十年以上の月日が流れても、いまだに悔しさと悲しさがこみ上げてきます。

 

これにはだいぶ心がやられまして、そんなこんなで随分と自尊心の低い大人になってしまいました。笑

いつも守ってくれた大好きなおばあちゃんの存在が心強かった

そんな中で、いつも私を温かく包んでくれたのが、隣の家に住むおばあちゃんの存在でした。私はよくおばあちゃん家に遊びに行っていました。

 

どんな私のことも理解してくれて、本当に大好きでした。

おばあちゃんがいてくれるだけで幸せでした。

 

商人だった祖母から、人に優しく、親切にすることの尊さを教えてもらいました。

中学のクラス対抗の合唱コンクールで2度の優勝。高揚感と達成感で大きな希望を噛みしめる

中学でもいじめられていた

地元の中学校に進学したく無いと言う理由と、おばあちゃんが推してくれたと言う理由で、ちょうど新しく開港する中学校を受験しギリギリ合格し晴れて進学。

これから楽しみな学校生活が待っているかと思いきや、毎週行われるテストに四苦八苦。テストの結果を学校内に大きく張り出すのですが、30点以下は名前が載りません。

しかし、出席番号やクラス名は毎回記載されていたため、赤点の常連である私は名前がが載っているもほぼ同然。

その内、校内で軽いいじめが始まり、どんどんエスカレートしていきました。

クラス対抗の合唱コンクールで2度の優勝。高揚感と達成感で大きな希望を噛みしめる

唯一、私の中でいい意味で心に残った思い出があります。

それは「合唱コンクール」です。

勉強はことごとくできなくても、ここに私を必要としてくれている場所があると感じられました。

 

何故、この時間だけ、こんなに楽しかったのか、、それは私自身が歌うことや、ピアノを弾くことが大好きだったからでしょう。

唯一、過酷な勉強世界の中で、居心地の良さを感じられる時間だったからでしょう。

 

その得意分野を認めてくれる人たちがいたからでしょう。

私の行動力が、周りが私を認めてくれるたくさんのクラスメイトが、より私をやる気にさせてくれました。

 

「この場所には私が必要だ。必要とされてるんだ、私がいなきゃダメなんだ、ここにいていいんだ、絶対に優勝したい!!!」

という気持ちを強く抱いたのを覚えています。また、その時にクラスで好きな人がいました。その人が見てくれている・・・・という感覚が、私のやる気をより引き立てたのでしょう。(笑

 

最終的に、3年間の合唱コンクールで、2回優勝することができ、とても私自身の勇気になりました。今思い返しても感慨深い思い出です。

初めて心から自信が持てた!2014年水戸の梅大使に合格

梅大使に合格した

厳しい学生生活、そして、私には何もこれと言った実績や資格がありませんでした…。

しかし、大学生活最後の年だった2014年、水戸の梅大使に合格したんです!この経験は、これまで二十一年生きてきて、一番嬉しいことでした!!!

私は大学四年の時点で、教員免許を取るでもなし、学芸員の資格を取るでもなし、単位もギリギリで、特に何も成し遂げた実績がなかった。

 

だから何かたった一つでもいい、何か残して卒業したいと思ったんです。

そんな時に見つけたのが水戸の梅大使の募集でした。

 

「これだ!いまだ!」とおもったんですね。

どうしても受かりたかったんです。

 

理由は、もともと故郷が大好きで、生まれ育った街に何か恩返しがしたかったということと、おばあちゃんがすごく応援してくれていたということ、そして、私は全く自分に自信がありませんでしたので、絶対に受かって、自信にしたかったんです。

 

なんとしても受かりたかった私は、自分なりに相当、水戸のこと、茨城のことを勉強しました。そして太っていたのでダイエットにも打ち込みました(笑

私の時は難関で、たくさんの可愛い、美人な子たちが受けにきていて、かなりひるみましたが、今まで特訓してきたので、とにかく全力で面接に挑みました。

 

名前を呼ばれた瞬間…そのあと数秒くらい何が起こったのかわからなくて、その場から全く動けませんでした。

そして、「呼ばれましたよ!」と周囲に促され、なんとか立ち上がったものの、全く地に足が着いてない感覚で、空を飛んでる気分だったんですね。(笑

 

大きな、大きな、夢にまで見続けた夢が叶った瞬間でした。

生きていれば、そして、やりたいことを見つけたら全力で努力すれば、夢は叶う!!!

 

心から幸せを感じられたのです。

水戸の梅大使に受かった時は大学の卒業間近で、江戸川大学の学生新聞にも取り上げていただけて、両親もとても喜んでくれて、大学卒業間近な時に、私自身納得のいくいい卒業式を迎えられました。

その時に私に関わってくださった方々には、感謝してもしきれません。

水戸の梅大使になって経験した幸せと、苦悩。

憧れの夢が実現し、大学の先生にも喜んでもらえて、学生新聞にもしていただき、水戸の梅まつり期間中には、学生と教授が取材に来てくださいました。

 

しかし…梅大使に合格できて自信がついたものの、問題は梅大使になった後だったんです。

水戸の梅大使は毎年公募で10名選出されます。

水戸の梅大使になると、集合研修が12月におよそ一週間程度あります。

 

そこで、水戸学の勉強や、美容、観光の知識、サービス精神、歩き方にお辞儀の仕方、礼儀や常識などなど、着物の着付けを一週間で学び着こなせるようにならなければなりません。

さらに髪結いの練習も欠かせません。

 

私は、当初の楽しいドキドキとワクワクから、張り詰めた緊張感へと周囲が変化してゆくのを感じました。他の九人の同期たちはどんどん吸収し、九人はあっという間にできるようになっていきます。

 

しかし、私はそうじゃありませんでした。

いつまでも、私だけ素早く着物が着れない、他の九人に遅れをとり、なじめず、孤立気味に。講師や周囲に比較されることが最も怖く、周りからの私に対する視線に不安ばかり募っていました。

梅大使の研修では、失敗ばかり上手く出来ない私は、講師たちから目をつけられてしまいます。

 

頑張って練習して挑んでも、否定される、他の同期は必ず褒められるのに、私には叱責、注意のみ、の繰り返しです。

特に梅大使の着付けの研修は私にとって最大の難関であり、初期段階から周囲に遅れをとるようになります。

 

さすがに106人の応募者の中から選出されただけあり、同期はみんな理解が早く、私は決まって着付けが終わるのは周囲に手伝ってもらっても一番最後。

毎回みんなを待たせていました。まさに私の代は、精鋭揃いでした。

しかしそれは、明らかに私を除いては…の話だったのです。

「なぜ、私みたいな出来ないやつが選ばれてしまったのだろう」

「審査員の皆さんに申し訳ない」

「同期に申し訳ない」

…他の同期の九人に迷惑をかけているのは明らかでした。

 

私は、自分で自分を責めることしかできず、周囲との比較に悩み続け、選ばれた時の天国から地獄を見ることとなり、まさにどん底で苦しい日々。

人生で一番、自信がなくなっていました。

理想と現実の壁というか、周囲との差を感じました。

 

そんな時、同期からある言葉をかけられました。

「十人しか選ばれないんだよ?そんなこと言って、なれなかった人たちはどうするの??もとみよりなりたかった人がいたかもしれないんだよ」

 

その時、ハッとしました。

審査会前、私はどうしてもどうしても、水戸の梅大使になりたくて練習に励んでいた時、私の中にあった思いは『情熱』でした。

絶対に私以上に梅大使になりたい思いが強い人はいない!!!!!絶対になる!!!!!」そう思いながら審査会に挑んでいたのを思い出したんです。

 

ですから、正直同期のその言葉にはイラッとしました。でもだからこそ気づかせてくれました。自信を持って頑張ろう、一生に一度しか経験できないことなのだからと…。

 

だって、間違いなく、私が一番なりたかったんだから。

水戸を愛する思いが誰よりも強いのは私なんだ!!!って。

 

これは、誰よりも自信を持って言えます。

私は、梅大使に選ばれた1年間、人生の全てをかけて全力投球することを決めました。

 

しかし、そんな矢先、私にとって人生最大のハプニングが待ち受けていたのです。

私の人生を支え続けてくれた祖母の突然の死

小学校時代、中学校時代、どんなに馬鹿にされようが、遊具の真上から突き落とされようが、机や黒板にデカデカと死ねと書かれようが、集団無視や、菌の回しあいをしてるクラスメイトを眺めていても、耐えられた。

なんとか乗り切ってきたんです。

それは絶対に祖母がいてくれたから。私の人生のかけがえのない人でした。

 

でも…、突然、祖母がなくなってしまったのです。これは、私にとって人生で最大の苦しみでした。

 

水戸の梅大使は各地の行事に参加しなければなりません。

そのなかの一つが水戸の梅祭りというものです。水戸の中でも大きな行事の一つです。

 

祖母は、梅祭り初日に出勤だった私のことを、水戸の梅祭り会場の偕楽園まで送り届けてくれました。

そして、帰りも、私を迎えにきてくれたんです。

 

だから、まだ元気なんだと思っていました…。

水戸の梅祭り初日の深夜、突然おばあちゃんは湯煎に浸かったまま、亡くなりました。

さっきまで、私のこと、送り迎えしてくれてたのに、なんで?どうして???

 

混乱が止まりませんでした。

家族は慌てふためき、私はスマホで救急車を呼びたくても手が震えてなぜか打てません。

買ったばかりのスマホと、番号すら押せない自分の指を恨みました。

 

結局祖父が電話をし、私は祖母に毛布をかけ、ひたすら涙をこらえるのに精一杯で、しばらくして救急車が来て、そこから数時間、静かな時間が流れました。

 

私にとって、水戸の梅大使の活躍を一番見て欲しかった人が、なぜ、お祭りの初日でこの世を去ってしまうのか…。

私は、神様を恨みました。そして私自身の不甲斐なさ、何もしてあげられなかった自分自身を恨みました。

私は祖母が亡くなった数時間後には、梅大使としての出務がありました。

 

梅大使になることを一番喜んでくれていたのは祖母でした。

いつも、どんな時も、助けてくれたのは祖母でした。

私の、もう一人のお母さんです。

 

だから私は祖母のためにも、やり遂げなければいけない。

だから、泣いちゃダメだ。泣いちゃダメだ。

どんなにそう思っても、昨日今日の出来事…とても無理でした。

 

でも、祖母は私が泣くことを望んではいない。

私に自信を持って、誇りを持って生きてほしいってきっと思っているはずだと。

だから私は、私らしく、とにかくおばあちゃんがそばにいてくれる・・・そう信じてやりきろう!この困難を乗り越えよう!と誓いました。

そして自分の夢を追いかける挑戦を始める

それからは自分の夢を諦めない挑戦をし続けました。

漫画とアニメが大好きな私はアニメーターを夢見て高橋留美子先生のアニメ会社に就職したり、地元に帰ってから就職したりもしました。

結局はそこでもパワハラのようなことを言われ続けました。

「正直、全然絵の才能ない」

「全然描けてない」

「これじゃ全然ダメ、他行っても無理だと思う」

「みんなが、お前のせいで作業が進まなくて迷惑しているんだ」

「さっきも言ったよね?普通にできると思ったから雇ったのに」

 

夢と現実の差を感じ、体を壊してクビになり、入院したのち色々粘りに粘って都内で頑張るつもりでしたが、いろんな事情から実家へ戻ることに。

都内と東北の病院を往復し、しばらく療養しながらも、自分には何ができるのか、もうわからなくなる時がありました。

 

でも、私は祖母に誓ったんです。自分の夢を諦めない。

夢は人に決められるものではない、自分で決めるものだから。

会社を3回クビになり、私はまともに会社員として働けないけど、観光大使なら実績もあるし、毎日勤務するわけじゃないからできるかもしれない・・・また茨城県内の観光大使探してみようかなあ、と思ってたんです。

 

そんな時、水戸の梅大使の時代から応援してくれていた友達から

「第6期茨城空港応援大使が今募集しているよ!!もう後少しで締めきっちゃうから、応募してみたら!!」との紹介を受け、水戸から小美玉市は通えない距離じゃないし、茨城空港の大使ができるなんてすごい魅力的に感じた私は、即履歴書書いて応募することに。

 

結果、何人もの応募者の中から選出していただけました。

また、観光大使になれるなんて、本当に本当に嬉しかったです。

私は観光大使が天職かもしれない!!と思ったほどです(笑

 

茨城空港応援大使として任期開始の2018年2月から、同時期に募集をしていたスカイマーク茨城空港支店で、グランドスタッフとしても同時に働き始めることになります。

テレビを見た視聴者の友人から、「EDに名前載ってるよ!!」と言われて褒められた時は、最高に嬉しかった!全ては無駄じゃないんだ!!と思えたんです。

それからの私は茨城空港応援大使の活動を通して様々なご縁があり、なめがたのラジオや、北海道のラジオ番組、ゴルフ番組、沖縄のテレビや新聞にも掲載していただき、茨城空港の魅力を発信することができました。

とても充実感を感じられた、素晴らしい時間でした。

 

また、数えるほどしかいない茨城観光マイスターS級を取得、おもてなし県民大会にも呼んでいただけるようになり、自分に自信がついてきました。

生きにくいと思うことはあるけど、どんな人にも価値があるって伝えたい

正直、生きにくいと感じることもあります。

うつ病と診断されたり、ADHDと診断されたり、最近では双極性障害Ⅱ型とも診断されました。

なかなか私の思っていることも伝わらないことも多いし、話も聞いてくれないこともあります。

何が良くて、何が悪いの?普通って何?って思うこともあります。

 

でも、こんな私だからこそ伝えられることがある。そうお婆ちゃんに教えられている気がしているんです。

 

最近では、水戸にあるコミュニティスペース『本拠地』というところで、お世話になり、自分自身とはなにかをよく考えるようになりました。

本拠地の皆さんとの出会いによって、新たな自分の気づきが生まれ、自分の価値を少しずつではありますが再認識できるようになり、改めて自分の生きる道を探すきっかけを与えてくれた場所です。

 

この水戸が好き、地域が好き、人が好き。

でも、ダメだと思ってしまう私。

だからこそ伝えられることがきっとある。

 

私を通して、どんな人にでも価値があるよ!って伝えて…

価値観、常識に縛られない世界を作りたい!

 

そんな想いを持って自分自身の弱さと向き合いながら、活動を続けています。

 

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